2013年1月21日月曜日

梅原猛 原発について

梅原猛さんが、1999年に茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オーが起こした原子力事故を契機に書いた文章です。
このとき梅原さんが予言したように、福島第一原発事故は起こりました。今、もう一度この文章をよく読み返し、原子力のあり方を考え直さなければならないと思います。

~臨界事故に思う~
たしか三年前、私は原子力発電について、日本は三十年かかって廃止すべきだとこの欄で論じた。原子力発電は日本の総発電量の三十五パーセントを占めているので、一朝一夕に廃止できるものではないが、原発そのものはいつ大事故を起こすか分からない危険を秘め、しかもその廃棄物の堆積は人類ばかりかあらゆる生物の生存に対して、予想もつかないような害毒を与えることは間違いない。そういうものは、現在においていくら必要なものであっても、早く廃したほうがよい。
それで私の提案は、十五年で原発を半減し、三十年で廃止するという提案である。三十年間は過渡期として仕方がなかろう。
このためには二つのことが要求される。一つは、エネルギーの消費を抑えること。それにはやはり生活を思いきって簡素にしなければならぬ。今の先進国の一人当たりのエネルギー消費量は、かつて地球上をわが物顔で歩いていた巨大な恐竜に比すべき消費量であるという。この地球の六十億の民のすべてが巨大なエネルギーを消費する恐竜のごときものになったとしたら、とてもたまったものではない。
そのことを考えると、二十一世紀の一つの文明の課題は、巨大なエネルギーを消費する文明からエネルギー消費の少ない文明に、文明の性質を変えることである。たとえば日本の一人当たりのエネルギー消費量を戦時中、あるいは戦後直後に比べると、何百倍になったに違いないが、戦時中、あるいは戦後直後の人間が現在の人間より不幸であったとはいえない。エネルギーの消費を抑え、そしてそのなかで一人一人の人間が心豊かに暮らせるような社会を目指すべきである。経済成長率が人間の幸福の決定的な尺度であると考えるのは間違っている。
もう一つは、新しいエネルギーの開拓である。たとえば太陽熱を利用したり、たとえば風力を利用したりする技術が開発されなければならない。今のところ、そのような自然エネルギーを使う技術は、他の石油や原子力などのエネルギーを使う技術よりはるかに開発が遅れていて、そういう技術によって作られるエネルギーを発電に利用するにはコストがかかり、とても採算が合わぬという。そうかもしれないが、私は、それは今の状況のなかで考えられている常識的見解であると思う。
原子力エネルギーが人類にとって大変危険なものであり、もはや使えないとなれば、そういう新しいエネルギーの開発が飛躍的に進むのではないかと思う。そういう新しいエネルギーの開発を、まだ人類は必要とせず、十分な研究費も投入していないので、そのような技術の開発が遅れているのではないか。あるいは従来のエネルギー利用によって十分潤っている産業などは、そのような新しいエネルギー利用の技術が開発されれば自分たちは利益を失うので、その開発を妨げているという面もあるのではないかと思われる。
今度の事故はスリーマイル島、チェルノブイリの事故に次ぐ大事故であるという。しかし、まだひどい大事にいたらずしてすんだが、この不幸な経験をわれらは未来の教訓としなければならないであろう。アメリカやロシアではひどい事故が起こったが、日本は大丈夫だという今までよく言われた論理はもう通用しない。私は今の日本人を見ていると、日本人がアメリカやロシア人以上に道徳的に立派であり、義務に忠実であるとはとても思えない。したがって、こういう日本人の扱う原子力事業なるものは恐ろしい危険を含んでいる。そして大地震が起こったり、原子力施設への他国からの攻撃があったりしたら、スリーマイル島やチェルノブイリどころではない悲惨な大事故が起こるのは確実であろう。
 今度のことを大きな教訓として、ここで本気で原発の廃止を考えなければならない。困難でも、それをすることは子孫の生活を守るわれわれの義務であると私は思う。

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