http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/gijiroku/kousou12.pdf
★「文明災」という言葉に批判があったのですが、あれは私の言葉なんです。これを入れないのならば私は辞職しようと思うんです。やはり「文明災」なんです。天災であって人災であって「文明災」。世界の先進国は原発を使って生活を豊かにする。それが当然と考える文明の原理なんです。これが大きく問われているのです。それは世界的に広がっていって。ドイツもイタリアも大体フランスでも恐らく脱原発の方向へ進むと思うんですが、それは近代文明に対する考え方が変わるということなんです。
これはどうしても必然な動きでありまして、「文明災」という言葉がマスコミでも使われるようになっていますが、これは全部人災とはいえない。東京電力や政府だけの責任ではないんです。世界の先進国はみな原発を使って自分の生活を豊かにするという文明なんです。それが変わらなければならない。
最近、「共生」という言葉がよく用いられますが、私は近代文明には人間の傲慢、人間の思い上がりというものがあったと考えています。新しい文明は人間と生きとし生けるものの「共生」ということを図らなければならない。その意味で文明が裁かれなければならないという考えなので、やはり「文明災」という言葉を入れていただきたいと思います。
★科学技術云々ではなくて、これまでは自然を征服する科学技術文明、これからは自然と「共生」する科学技術文明にならなければならないというのが私の長い間の信念です。これは湯川秀樹先生や福井謙一先生などもしきりに自然を征服する科学技術から自然と「共生」する科学技術にならなければならないといわれていた。そういう意味で、私は文明が変わらなければならないと考えております。
★「文明災」という言葉がだめなら、さきほど委員がおっしゃったように、これで文明の性格が問われる、そういう大きな震災だったというふうに書いていただいても結構ですが、現実に世界で反原発の動きが強まっている。世界の文明は必然的に変わらなければならない。それと「共生」ということです。「共生」というのは2つの意味があって、人と人との「共生」ということをここで強調されましたが、もう一つは黒川紀章君などが言っていたような、自然との「共生」という意味です。
「共生」という言葉はこの中では両方の意味に使われている。そこのところの意味をはっきりさせて、近代文明は自然を奴隷のように使う文明。それに対してこれからの文明は、人間と自然が「共生」するような文明にならなければならないと私は思っています。これは私の信念なので、私は哲学者として、あえてデカルト哲学を否定するような哲学を書こうと考えています。今まで遠慮していたけど、デカルトであろうが、ニーチェであろうが、ハイデッガーは何者だというような本を書こうと思っています。
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